「まちと山の文化が循環し、支え合う暮らし」まちは劇場ってなんなんだ会議:オクシズ編(前編)

静岡市がめざす「まちは劇場」は「一人ひとりが主役を演じることができるまち。誰もが自分らしく活躍できる舞台」という、まちづくりのコンセプトです。けれど私たちの「日常」が大きく揺るがされた2020年は、その舞台である「まち」と人との付き合いかたも、大きく変化した一年でした。

2021年1月、アートプロジェクト『きょうの演劇』のヒントを探して、静岡で「暮らしかた・遊びかた」を発明している若い人たちに会いに行きました。第二回は静岡の中山間地域をテーマに活動する、原田さやかさんと冨田和政さんです。

(撮影:大野写真研究室

 

お話を聞いたのは…

原田さやか(自然保育「森のたまご」主宰)
愛知県豊橋市生まれ。大学入学を機に静岡へ。仕事を通じて玉川のおばあちゃんと出会い、静岡市の山村〝玉川〟を知る。2008年に「安倍奥の会」を立ち上げ、安倍奥・玉川の魅力を伝えるとともに、2014年3月には玉川地区に移住し、株式会社玉川きこり社を設立。代表取締役就任。「きこりと子育て」を事業テーマに活動した後、出産・子育てを機に会社を離れ、自然保育「森のたまご」を立ち上げ。二女を育てながら、薪ストーブを囲んで暮らす自然に寄り添った山の生活を実践している。

冨田和政(オクシズマガジン編集長)
静岡県島田市出身。29歳。関東の大学に進学後、静岡市内の出版社に3年間勤務。業務の中で、静岡市の中山間地「オクシズ」のPRに携わる機会があり、オクシズに興味を持ち始める。その時の縁から、25歳で静岡市(オクシズ)地域おこし協力隊に就任し、オクシズ(玉川地区)へ移住。協力隊では、観光情報の発信や移住・定住支援の業務に従事。その後、オクシズをはじめとした「静岡の面白さをもっと伝えたい」と思い、27歳で「株式会社好上社」を設立。現在は、オクシズマガジンというローカルメディアを立ち上げ、収集した地域情報をどのようにして「まちづくり」に活かすか、日夜奮闘中。

 

中山間地域の文化を伝える、メディアと暮らし

今日は「オクシズ」と呼ばれる中山間地域で活躍しているおふたりの対談。原田さんのブログ「玉川くらし」の主な舞台であるご自宅へ。市役所の中山間地域振興課職員として長いことオクシズに関わってきた「まちは劇場推進課」の多々良さんも交えてお話を聞きました。

―「玉川くらし」で拝見する暮らしぶりが、とても素敵で。今日は実際にお邪魔できて、嬉しいです。まずは現在のご活動について教えていただけますか?

原田:昨年(2020年)8月に次女を出産して、今は暮らしがメインになっていますが、2018年秋に自然保育「森のたまご」という団体を立ち上げました。この玉川の自然の中で、まちのお母さんたちも一緒になって子育てをする、という活動をしています。

自然保育「森のたまご」主宰・原田さやかさん

10年ほど前からずっと、山とまちをつなぐということ、玉川の文化を残していくということを考えて活動してきました。2008年に浅間通りの朝市に来ていた玉川のおばあちゃんと出会ったのがきっかけです。「奥仙俣」という、玉川の中でも一番奥にあるご自宅に遊びに行かせてもらうと、おばあちゃんが本当に温かい笑顔で迎えてくれて。そのとき初めて、こんなにも自然に寄り添った暮らしがあるんだと知りました。

原田さんが出会った玉川のおばあちゃんの暮らし

私は当時「すろーかる」という地域情報誌の編集の仕事をしていて、中心市街地のアパートに住んでいました。夜遅くまで働いていたし、地域とのコミュニケーションはまったくなかったんです。でも、そのおばあちゃんと出会ったことで「山の暮らしはなんて美しいんだ」と感動して。

当時、「限界集落」という言葉を知って、自分の働く情報誌でお手伝いできることはないかと考えていました。でもそのおばあちゃんの暮らしの美しさに触れて、「何かしてあげたい」というより「与えてもらっている」という感覚が大きくて。それを皆さんに伝えたい、という気持ちが今も原動力になっています。

 

オクシズマガジンは「仲間づくり」

―脈々と受け継がれてきた玉川の生活文化を、ご自分の暮らしを通じて表現しているのですね。冨田さんも編集者として「オクシズマガジン」という情報誌を発行されています。

冨田:僕は1年ほど前から「オクシズマガジン」を通じて、静岡の中山間地域のことを知ってもらったり足を運んでもらったり、それによって繋がった人たちと一緒に何か新しい取り組みが一緒にできたらいいな、と考えています。だから情報発信というよりは「仲間づくり」のための媒体だと思っているんです。

最初は媒体のファンから入って、どっぷりオクシズにつかってもらいたい。定住はしなくても地域に深く関わってくれる人を一人でも二人でも増やせれば、ゆくゆくは地域のために繋がっていくんじゃないか。そういう可能性を探る意味で、媒体をつくっていますね。

―情報が一過性で消費されるのではなく、関係性を生み出していくことを目指しているんですね。

冨田:そうですね。ある地域に特化して情報を出し続ける媒体が静岡にあまりないので、やってみたら何が起こるんだろうという興味もあります。最近では移住はもちろん、山にオフィスをつくりたいという相談も来るようになって、有り難いですね。続けることによって生まれるものが、これから増えそうだという手応えを感じています。

―もともと25歳で地域おこし協力隊として、玉川に入られたんですよね。

冨田:そうですね。もともと、まちづくりに関わりたいという思いがあって、フリーペーパーをつくる会社に勤めていました。行政担当だったので、オクシズの取材や広告をつくる機会が毎年あって、興味を持ったんです。一度オクシズに住んでみたいと思って、ゆくゆくは独立したいという目標もあったので、玉川地区の地域おこし協力隊に応募しました。

オクシズマガジン編集長・冨田和政さん

―地域おこし協力隊としては、どんなお仕事をされていたんですか?

冨田:僕は移住促進とか、交流人口を増やすことに力を入れていました。

ただ玉川だけやってもどうかな、と思っていたので、梅ヶ島や大川、大河内といったオクシズの別の地域にも足を運んで「玉川とどう違うのか」を比較して活動していました。だから当時から、玉川以外の地域にも足を運んでいましたね。

―冨田さんの移住当初から、おふたりは交流があるんですよね。

冨田:移住する前に、原田さんのインタビュー記事はたくさん読んでいて「原田さんのような人がいるなら入っていきやすいな」というのも玉川を選んだ理由のひとつでした。当時、原田さんは「玉川きこり社」という林業の会社を起業して、活動されていて。

原田:引越してくる前に、会いに来てくれたよね。きこり社では当時「玉川新聞」というフリーペーパーを発行していたので、移住してきたばかりの冨田くんを紹介させてもらったり。その一年後には私の妊娠を機に、冨田くんに玉川新聞の編集をバトンタッチして。おかげで新聞を続けることができて、本当に助かりました。

原田:私自身は、子育てを機にきこり社を離れて、新聞も昨年で一区切りしました。地域が受け継がれていくためには子どもの存在が大きいと改めて感じているので、子育て世代の移住者を増やしたい。だから、これからは子育ての環境づくりに力を入れたいと思っています。

冨田:僕は、移住者は増えたらいいなと思っていますけど、必ずしも定住じゃなくてもいいし、子育て世代でなくてもいいと思っています。まちを彩るのはそこで暮らす人ばかりではなくて、いろいろな人がいていい。だからお店をやっている人やものづくりをしている人など、働く人にオクシズマガジンではフォーカスしています。そういう人たちがオクシズの顔をつくっていくと思うので。

―玉川はオクシズの中でも特に、移住者が多い印象があります。

冨田:僕が地域おこし協力隊をやっていた頃は、年間で三十人くらい来ていましたね。

原田:私も最初は集落支援員をやっていて、その頃もかなりの方が来てくれました。その頃も現在も空き家が足りていないのが実情だと思います。空き家の掘り起こしは、草の根的な活動が大事で、今細かく動ける方がいないんです。私や冨田くんも、移住希望者さんのために自分たちで空き家のオーナーさんに貸してくれるよう交渉をしていました。

―どのあたりから移住されてくる方が多いんですか?

冨田:市内の方もいますが、焼津とか、県内から来る人もいますね。

原田:東京から移住してくる人の場合、ご本人や親御さんが何らか静岡にご縁のある人が多いですね。でもまったくご縁がなくて来る人もたまにいます。ちなみに私は豊橋出身ですが、大学からはずっと静岡です。最初は、絶対に住めないと思っていたんですよ(笑)。でも活動を続けるうちに、自分にとってお母さんみたいな人たちができたり、先に移住した方の暮らしを見たりしているうちに、うらやましくなってきて。


まちを支えてきたオクシズの歴史

―最近は「オクシズ」がブランドとして、特に市内では一定以上の認知があると思いますが、当然のことながら、それ以前からとても古い歴史ある地域ですよね。この中山間地域には、どんな土地柄や文化があるのでしょうか。

原田:玉川でいうと、林業で栄えてきた村ですね。それが衰退しつつあったので、林業を再生しようと思って、きこり社を立ち上げました。あとは茶産業。

冨田:今は山から人がまちに働きに行くイメージが強いですが、もともと、まちの人が山に働きに来ていたんですよね。お茶摘みはもちろん、伐採、金の採掘、鉄鉱、石切場といった仕事場があった。こちらに住んでいる人口も多かったですし。

原田:最盛期で4000人以上の人が住んでいたそうです。戦後もみんな、まちから食料を買いに来ていたみたいですよ。物々交換で。

写真提供:オクシズマガジン

冨田:だから、今のこういう暮らしや文化の形になったのって、けっこう最近なのかなって。それまではみんなビジネスチャンスを求めて、稼ぎに来ていた。その産業構造が変わったから、人がいなくなったわけですよね。

多々良:歴史的にいうと、今川義元や徳川の時代は、梅ヶ島とか井川で金が採れたので、それがまちを潤していた。今川の政権の基盤をつくっていたので、すごく重視されていた地域なんです。オクシズがまちの暮らしを支えていたといえると思います。あとは、お茶畑のある風景が、静岡にとってはやっぱり大事かなと。「縁側カフェ」はまさにそうですよね。お茶畑が目の前に広がっていて、縁側に腰掛けてお茶を飲みながらおばあちゃんとお話する。僕も小さい頃は川根本町に祖母の家があったので、まさに原風景なんです。

提供:オクシズマガジン

冨田:かつてオクシズにみんなが住んで働いてきたからこそ、今のまちがある。そういう形で、オクシズはまちを発展させる礎になってきた。自然環境という観点でいえば、山があることで水害や生物多様性の危機から、まちが守られているという面もあります。オクシズが衰退していけば、いずれ何かしらの形でまちにもダメージが及ぶと思う。そうならないように山を守っていくのは、住む人でも、まちから関係人口として来てくれる人でも、どちらでもいいと思っています。

―そういう意味では、冨田さんがオクシズに関わってほしいと思っているのは、主に静岡の、まちで暮らす人たちなのでしょうか?

冨田:そうですね。静岡市は政令指定都市で人口も66万人いますし、一番近い経済圏から応援してもらうのが一番、いい形で支え合っていけるのかなと。そういう意味では、オクシズって恵まれていると思います。

―原田さんも、まちのお母さんたちとの子育てに取り組んでいますね。

多々良:以前、原田さんが「まちの人たちが週末にテーマパークに行くんじゃなく、森で過ごすようなライフスタイルをつくっていきたい」と話してくれて、すごく共感したんです。それによって、子どもたちが将来オクシズのことを大事にしてくれる、静岡はそれができるところだから、と。

原田:そうですね。ドイツやフィンランドのように、週末に森へ行くライフスタイルが素敵だなと思っていたんです。ここ静岡でも、まちに住みながらも週末だけ田舎暮らしができる。そういう価値観が広がったらいいなと思っています。

「玉川くらし」より

原田:オクシズでの子育ては起業前からずっと大事だと思っていたのですが、私には子どもがいなかったし、机上の空論だったんです。でも実際に子どもを授かって、まちのお母さんたちと一緒に玉川の自然の中で遊んだり、集落を巡っておばあちゃんちでお昼を食べさせてもらったり。そういうことをしているうちに、今まで気が付かなかった「山の宝」に改めて気づかせてもらいましたね。何でもおもちゃになるし、遊びになる。

「玉川くらし」より

原田:これからはもっと地域の人たちと一緒に子育てをする環境をつくれたらいいなと思っています。玉川に住んでいる方たちはお料理や手仕事といった、いろいろな技を持っています。実は、私が玉川に来るきっかけになったおばあちゃんたちも、昨年亡くなってしまって。時の流れは仕方ありませんが、今のうちに未来につなげていけるといいなと思います。

「まちと山の文化が循環し、支え合う暮らし」まちは劇場ってなんなんだ会議:オクシズ編(後編)へ続く

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